あさが来た あらすじ ネタバレ 第19週
「みかんの季節」
2月8日月曜日より放送。
あさ(波瑠)と新次郎(玉木宏)が、初めての二人きりの旅に出た。 惣兵衛(柄本佑)とはつ(宮﨑あおい)の一家の営むみかん農家のある和歌山へ...。
初めてとなる二人きりの楽しい旅の道中の心地良さとともに、ようやくの到着。 早々より懐かしい眉山家の面々との再会...。
はつと菊(萬田久子)は近所の人たちに琴を教えて慕われており、惣兵衛も和歌山で獲れたみかんの販路を東京に広げようと工夫を重ねる日々。 たくましくなった眉山家の暮らしぶりに、あさと新次郎は心から喜んだ。
ただ、あさとしては、はつと長男・藍之助(森下大地)の対立が気がかりだった。 それでも、幸せそうに朝の食卓を囲む一家の姿には、心を動かされて...。
そんなあさに、菊は藍之助を正式に加野銀行に雇ってほしいと申し出、山王寺屋再興をあきらめきれない菊にとって、藍之助は希望の星だった。
しかし、はつとしては、惣兵衛のこれまでの生き方を認めようとしない藍之助への怒りの変わらないまま。
はつと藍之助への想いは、惣兵衛も同じ。 あさとの二人きりの頃合いを見計らって、銀行での働きぶりを尋ねる。
あさは銀行での嬉しそうな働きぶりの藍之助を褒め称えるとともに、自分の元に預かり立派な商人に育て上げる決意を、惣兵衛に打ち明ける。 その上で、愛娘・千代(小芝風花)との対立の悩みも、打ち明けることになって...。
かつての"白蛇はん"の面影も消え男前となった惣兵衛には、あさの悩みに深く感じ入ることあったからか、家族の見守る中、藍之助に自身の若き日の思いを打ち明ける。
藍之助は父・惣兵衛のこれまでの生きざまと真意に深く感銘。 姿勢を正すなり、改めて商人になりたいと主張、両親に頭を下げる。
眉山家の面々は、少しずつ納得の方向へ...。
一方の千代(小芝風花)は、京都の女学校への進学早々より、寄宿舎で同室の田村宜(吉岡里帆)との共同生活の日々。
宜とは何気に気の合うものの、千代の母である、あさの生きざまや女性実業家としての姿への憧れを口にする姿だけには、一面だけしか見ていないと猛反発することもしばしばだった。
宜の変わらない言動への苛立ちからか、寄宿舎を飛び出した千代は大阪の白岡家に戻り、和歌山から戻ったばかりの両親のあさと新次郎を驚かせるまでに。
千代としては、あさに憧れる宜の表情に、なぜ異常なまでに反発するのか、解からないままだった。
やがて不況の波の押し寄せへの懸念から、山崎平十郎(辻本茂雄)は注意を要する顧客名簿をまとめ、あさに差し出す。 しかし、その名簿には、加野銀行の長年の得意先である資産家・工藤(曾我廼家八十吉)の名が...。
ほぼ同じくして、客でもないのに加野銀行に毎日姿を現わす若い男が...。
月日は流れて1894(明治27)年、日清戦争勃発。 世間がますます慌ただしくなる時世の下、藍之助の加野銀行入行が正式に決定。
しかしながら、新次郎が紡績会社社長を退任。 それでも、新次郎は憂うことなく、余裕のできたことをいいことに、千代のいる京都の寄宿舎へ向かうことも...。
唐突に、成澤泉(瀬戸康史)という人物が、あさを訪ねてきた。
アメリカ留学中に加野銀行女子行員の評判を耳にして、女性たちの働きぶりを確かめたいという。
泉は活気ある働きぶりを目の当たりにした感動を語るも、その場で貧血を起こして倒れてしまった。
かつて女学校の教師だった泉は、すでに教職を失い妻とも離婚していた。 帰国早々より、加野銀行を訪ねた時には、困窮の暮らしの日々にあって...。
気を取り直して、数日後に再び加野銀行を訪ねた泉だったが、あさからは女子大学校設立の懇願すを一蹴されるだけ。 やむなく泉は、一冊の本を残して立ち去ってゆく。
ここから瀬戸康史演じる成澤泉が、いよいよ初登場へ...。
モデルとなる成瀬仁蔵は、これからの女子高等教育の開拓者の1人。
1858(安政5)年6月23日、周防国吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷赤田大形)生まれ。
長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士の成瀬小左衛門の長男。
幼少時の藩校・憲章館での学びを経て、維新後の1874(明治7)年には調剤師として医家に住み込み。
この年には父の小左衛門が死去、山口の教員養成所の2期生に。 1876(明治9)年に卒業、小学校教員に。
アメリカ留学は翌年のこと。
帰国後牧師になった同郷の沢山保羅の感化を受けて山口を離れ、1878(明治11)年に大阪の浪花教会へ入信。
組合教会の運動で同年に設立された梅花女学校で主任教師を務め、翌1879(明治12)年には浪花教会に属し、女学校生徒でもあった旧福井藩士の娘と結婚。
私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職には熱心であるものの、伝道活動への意思が強く、1882(明治15)年に卒業生を送ると教職を辞したという。
以後、布教活動の傍ら女子教育も研究へ。
1890(明治23)年には二度目のアメリカ留学。
アンドーバー神学校、クラーク大学で教育学や社会学、キリスト教などユニテリアン的な思想を習得。 各種社会施設も視察して女子教育研究を行い、1894(明治27)年に帰国...。
あさに残した一冊の本とは一体...。
2002(平成14)年3月発売の『成瀬仁蔵』(中嶌邦/吉川弘文館)に記されたように、長州藩の下級武士としての生い立ちから、キリスト教と出会って女性観を変え伝道に力を尽くし、米国留学を経て女子高等教育に向かうまでのいきさつが...。
これまでの女性観を変えるきっかけとなったのは、キリスト教との出逢いと伝導...。
あるべき社会を問い続けた教育実践と、世界平和を願った実像が...。
折しも、千代の寄宿舎生活の始まり...。
2007(平成19)年11月発売の『女子高等教育における学寮 日本女子大学学寮の100年』(日本女子大学学寮100年研究会/ドメス出版)のような、寮生活あるいは寄宿舎生活のありのまままが...。
これまでの学寮の歴史と生活、国内外の女子大学寮の事例、いろいろと考えさせられることに...。
男性と女性が良い意味での押したり引いたりの繰り返しを通しての生き抜く力の高め方を垣間見ることになるのかもしれないや。
2016-01-20 |
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